それは小さな待合室でのこと。
クーラーはなく蒸し暑く、
小窓が開いているが風はなく、ここが二階である事を何となく確認する。
大通りに面した場所ではあるけれど、周りは木に囲まれている。
待合室には数人の待ち人がいる。
厳粛な場所であるからか、会話をする者はいないし、ひっそりとでも誰かが会話を始めたならば、皆が耳をそばだてているように感じてしまうだろう。
私は何をするでもなく、膝あたりの空間を見ながら、自分の名前が呼ばれるのを待っていた。
そこによぎる。
視界の外の、頭上によぎる黒い影。
私は瞬時に立ち上がり、
パチン!!と思い切り手を合わせた。
待合室の静けさがより際立つ。
「手応えあり!」
心の中限定で雄叫びをあげ、ゆっくりと手を開くと、
手脚のバラバラになった蚊が左手の指の付け根、
膨らんだところで血を流して潰れていた。
血を流してというか、
蚊の吸った血が腹から破裂していた。
私は立ったまま、じっと手を見て、思う。
…
一瞬だ。一瞬で命は終わる。
私が終わらせた。
蚊は自分が死ぬ事を予測はしなかったろう。
死んだことも今も分かっていないかもしれない。
今…蚊にとってもう今などない。
今生きていたのにもう今いない。
もう命じゃない。蚊の意識や感覚や欲望はどこに無くなるのだろう。
残留思念のようなものはあるのだろうか…
私への恨みなどあるだろうか…
「あるわよ。」
え…?
蚊が喋った…?
あ、えっと、残留思念のやつがですか、それとも私への恨みがあるんですか?
と思うより先に、
「あるわよ。」
もう一度ハッキリと聞こえた。
しかし喋っていたのは蚊ではなく、私の隣にいた中年女性だった。
彼女は私を見上げカバンからポケットティッシュを取り出し、
新品の封を開けてその一枚を私にくれた。
私は「あ、ありがとうございます。」とティッシュを受け取った。
女性は続けて「誰の血か分からないわよ。手を洗ったほうがいいわね。」と言った。
私はベンチに腰をおろし、飲みかけのペットボトルの水を手にかけて強く手を拭いて、
もう一度お礼を言った。
女性はそれ以上何も言わなかったし、私も黙っていた。
左の足首辺りが痒い気もしたが、私は動かなかった。
捨て場所が見つからず握りしめた濡れティッシュ、蚊の残留思念が手の中で暴れている。